ジョルジュ・パラントにかんする雑記帖

 『筑波大学新聞』第287号 (2010年9月1日発行) の「私の一冊」欄に、パラントについて書きました。
 はじめて名まえをきくひとむけの文なので、このサイトをごらんくださっているかたにとっては新情報はまったくありません(そのため、ここには引用もしません)が、パラントがすこしでも知られればよいと思っております。

 パラントの朗読 (mp3) を無料でダウンロードできるサイトの存在を、いまさらながらに知りました。

 La Sensibilité individualiste
 http://www.litteratureaudio.com/livre-audio-gratuit-mp3/palante-georges-la-sensibilite-individualiste.html

Cahun

 永井敦子先生(上智大学)が、ご著書『クロード・カーアン』(水声社)を出版なさったとのことで、1冊ご恵投くださった。
 きわめて独自性に富んだ文筆家・写真家であったことがほとんどすべてのページにあらわれていて、たいへん興味深い。
 カーアンはシュールレアリストだが、『メルキュール・ド・フランス』誌に、わたしの好きな哲学者ジョルジュ・パラントと同時期に執筆していた縁もあり、とても親近感を感じる。『クロード・カーアン』のなかにもパラントの名まえはでてくる。

Revue Le Grognard

 100年まえの思想・文芸に光をあてる雑誌 Le Grognard をずっと読みたいとおもっていて、10月にフランスに行ったとき、パリの書店を何軒かさがしたがみつからず、ニホンにかえってきてから、いちかばちかでニホンから註文したら、最近の号は入手可能だったようで、ちゃんととどいた。うれしい。
 とくに、写真でいちばん手前にある番外篇、Georges Palante et la génération honnie は読みごたえがあり、あたらしい発見にみちた興味深い1冊。
 国立国会図書館の近代デジタルライブラリー:
 http://kindai.ndl.go.jp/

 で、辻潤の著作や翻訳が読めることがわかりました。これは便利。

 『浮浪漫語』
 http://kindai.ndl.go.jp/BIImgFrame.php?JP_NUM=43032768&VOL_NUM=00000&KOMA=1&ITYPE=0

 シュティルナー『唯一者とその所有』の翻訳:
 http://kindai.ndl.go.jp/BIImgFrame.php?JP_NUM=43029443&VOL_NUM=00000&KOMA=1&ITYPE=0

Rue Proudhon

 出張でブザンソンに行ってきました。ともだちに手紙を出そうとおもって、ブザンソンの中央郵便局にゆくと、そこの通りの名まえがプルードン通り Rue Proudhon だったので、いたく感激しました。
 しかし、プルードンにかんしては、おなじブザンソン出身の作家、ヴィクトル・ユゴーのようにわかりやすい痕跡はありませんでした。
 しかし、演奏会などのできる市民会館にもプルードンの名まえが冠せられていました。

 斉藤悦則先生の「プルードンとブザンソン」のページ:
 http://www.kagomma.net/saito/travaux/besac.html
 

 5月3日の記事で言及したように、先月存在に気づき、とりよせていたジョルジュ・パラントの哲学時評全集の第2巻が、ようやく到着しました。
 編纂と序文を第1巻同様、わたしのともだちのステファヌ・ボーさんが担当しておられるのですが、これまた第1巻同様、わたしを、そしてわたしの訳書を、ひきあいにだしてくださいました。
 もちろん、これはわたしの業績が言及にあたいするからではなくて、友情のおかげだと自覚しております。しかし、それだけになおさらうれしいのです(笑)。

雑誌 Le Grognard の別冊特集、Georges Palante et la génération honnie の情報。




- AVANT PROPOS : Stéphane Beau – Goulven Le Brech
- GEORGES PALANTE, UN PRECURSEUR OUBLIE DE LA SOCIOLOGIE DE L’INDIVIDU : Stéphane Beau
- FREDERIC PAULHAN, LA MORALE DE L'IRONIE : Bernard Baillaud – Jacqueline Paulhan
- LUDOVIC DUGAS, JEAN-JACQUES ROUSSEAU ET LA TIMIDITÉ, DÉSACCORD ENTRE LE CŒUR ET L'ESPRIT : Présentation Goulven Le Brech
- LOUIS ESTEVE, L’ART DE RESTER SOI-MEME : Colette Dalle
- EMILE TARDIEU, LA DECOUVERTE D’UN LIVRE INAUGURAL : L’ENNUI, ETUDE PSYCHOLOGIQUE : Horia Patrasco
- JULES DE GAULTIER, LETTRES A BENJAMIN DE CASSERES : Sélectionnées et présentées par Mitchell Abidor
- LOUIS PRAT, LE SAGE DES PYRENÉES ORIENTALES : Goulven Le Brech
- ACTUALITE DE GEORGES PALANTE


Chroniques2

 非常にぼんやりしておりまして、パラントの時評全集第2巻が出ていたことに気づいていませんでした(^^;)。さっそく買います。

 Georges Palante
 Chroniques complètes, Tome 2
 (Revue Philosophique 1895-1913 et autres parutions)
 Coda, 2009
 ISBN : 978-2849670644
 24 euros

 雑誌 Le Grognard の第9号が出たようです:



Revue Le Grognard, n°9

- Marc Villemain : Écrire, dit-il
- Thomas Vinau : Des Brioches (poème)
- Mitchell Abidor : American rebels : Voltairine De Cleyre
- Chantal Baligand : Extase éphémère (poème)
- Goulven Le Brech : Entretien avec Olivier Salazar-Ferrer #2 sur Fondane
- Benjamin Fondane (1898-1944) : Le Romantisme allemand
- Jean-Pierre Lesieur : Portrait du poète aujourd’hui
- Olivier Verdun : La Criminalisation de l’engagement politique
- Patrice Maltaverne : Vote utile (poème)
- Anthony Mouillon, duc de trèfle : Mordioussssssss !
- Mikaël Lugan : Fragments poéthiques
- Goulven Le Brech, Pascale Arguedas, François-Xavier d’Arbonneau, Stéphane Beau : Du côté des livres.

http://perso.orange.fr/legrognard/





moliere

 きのうのつづきで、こんどは『女学者 Les Femmes Savantes』。

 『女学者』におけるアリストは、『亭主学校』におけるアリストが妥協を推尚していたのとちがって、衒学的な妻フィラントにあまりにも妥協的な兄クリザールにたいして、むしろ毅然たる態度をとるようにたきつける役まわりです。第2幕第9景より:

           ARISTE
 Certes, votre prudence est rare au dernier point !
 N'avez-vous point de honte avec votre mollesse ?
 Et se peut-il qu'un homme ait assez de faiblesse
 Pour laisser à sa femme un pouvoir absolu,
 Et n'oser attaquer ce qu'elle a résolu ?
              --- Les Femmes Savantes, Acte II, Scène IX
          アリスト
 たしかに、あなたの慎重さは、ほんとうにたぐいまれだ!
 そんなに優柔不断で、はずかしいとは思わないのですか?
 男が、妻に絶対権力をあたえたままで、
 妻が勝手に決めたことを、責めようとさえしない、
 そんなに意気地のないことがありえますか? 

 アリストは、えせ学者トリソタンにだまされたフィラントが、次女アンリエットをトリソタンに嫁がせようとするのを、じつはトリソタンが財産めあてでアンリエットと結婚しようとしていたことをあばいて阻止し、アンリエットが愛しあっていたクリタンドルと結婚できるように手だすけをします(この点は、イザベルがヴァレールと結ばれるように協力した『亭主学校』におけるアリストと相似しています)。第5幕第4景より:

           ARISTE
 Laissez-vous donc lier par des chaînes si belles.
 Je ne vous ai porté que de fausses nouvelles ;
 Et c'est un stratagème, un surprenant secours,
 Que j'ai voulu tenter pour servir vos amours,
 Pour détromper ma soeur, et lui faire connaître
 Ce que son philosophe à l'essai pouvait.
              --- Les Femmes Savantes, Acte V, Scène IV
           アリスト
 この良縁をふたりで自由にとりむすびなさい。
 わたしがもってきたものはにせの知らせにすぎない、
 あれは策略で、きみたちの愛の役にたとうとして、
 わたしがこころみた不意打ちの援護なのだ、
 お義姉さんに誤りをさとらせ、お義姉さんが学者と
 思い込んでいた奴の正体を知らせようとしたのだ。 

 このように、『女学者』におけるアリストは、総じて『亭主学校』のアリストにみたような「観照的」な態度というよりはもっと行動的で、自分からのぞましい結果をみちびきだす具体的な動きをしています。
 しかし一方で、えせ学者トリソタンにたいしては、冷徹な軽蔑の目をむけています。

 『女学者』におけるアリストもまた、『亭主学校』のアリストと、細部にちがいはあっても、常識的でバランスのとれた人格者としてあらわれています。
 この点を、パラントのいう「アリスト」概念にむすびつけるとすると、やはりその背後にある「貴族的個人主義」の、「シュティルナー的個人主義」にたいする優越性(とパラントが称するもの)が、モリエールのふたつの喜劇においてアリストがもっている優越性にあい通じると思われます。

 そのようなわけで、パラントが、モリエールのふたつの喜劇におけるアリストを意識しながら、「アリスト」概念を提出したことは、大いにありうると思います。
 しかしながら、パラントがモリエールに言及したことは、すくなくともアリストをめぐっては1度もありませんので、ここでも、パラント自身のくちからそれをきくことはできません。

♯パラントの著作にモリエールという名まえが出てきたことは、おそらくメルキュール・ド・フランスの哲学時評で1度だけ、それもサント=ブーヴがモリエールを評したみじかいことばを引いたときだけのはずです:
  Je songe au mot de Sainte-Beuve à propos de Molière : " Aimer Molière, c'est être assuré de ne pas aller donner dans l'admiration béate et sans limite pour une Humanité qui s'idolâtre et qui oublie de quelle étoffe elle est faite. " (le 16 mai 1914)
 



moliere

 
あたらしい思想をもたらす思想家の大部分は、自分の理想と、周囲の願望とのあいだにある不均衡をみたとき、自分の思想の価値をうたがった。かれらは、人類の真実、さまざまな知性をむすびつけ、統一する社会的、道徳的真実などないのではないかとうたがった。それが、ヴィニーにおけるシャテルロンの、ルナンにおけるネミの司祭の、そしてさらにおおくのほかの人物の、永遠のものがたりである。思想家はある種の貴族、「アリスト ariste」である。思想家として、かれはつねに孤立している。かれはけっして「数」にはならない。つまり、けっして、集団の精神を体現することはない。(パラント『個人と社会の対立関係』拙訳書p.42)

 このくだりをふくめて、パラントの全著作に数個所あらわれるのみで、パラント自身がまったく説明していない概念、アリストについて、おなじ名をおびた登場人物がモリエールの『亭主学校』(L'Ecole des Maris)と『女学者』(Les Femmes Savantes) に登場することを、N先生からご教示たまわったことは前回書いたとおりです。

 そのとき宿題にしていたモリエールのふたつの喜劇のうち、『亭主学校』を読了しましたので、小学生の感想文のようなものをかいてみようとおもった次第です。
 『亭主学校』の登場人物のアリストについてですが、パラントのいう「アリスト」とあい通じるかというと、そうともいえるし、そうでないともいえる、という、微妙なところです。
 『亭主学校』のアリストは、かれの弟のスガナレルとは対照的に、まずは妥協的で、寛容なひととしてあらわれます。第1幕第1景で、つぎのようにいっています:

        ARISTE
 Toujours au plus grand nombre il faut s'accommoder,
 Et jamais il ne faut se faire regarder.
 L'un et l'autre excès choque, et tout homme bien sage
 Doit faire des habits ainsi que du langage,
 N'y rien affecter, et, sans empressement,
 Suivre ce que l'usage y fait de changement. (L'Ecole des Maris, Acte I, Scène I)

        アリスト
 いつも、みんながするのと同じようにするべきだ、
 けっして目立つようなことをしてはいけない。
 両極端はひとの気にさわる、悧巧なひとなら、
 服装にしても、ことばづかいにしても、
 まったく気どったり、必死になって、
 流行のうつりかわりを追いかけたりしてはいけない。

 一見したところでは、ここにあらわれているのは、パラントのいう「アリスト」的なありかた、すなわち、孤立をまったくおそれずに傑出するというありかたとは逆の、ほどほどの妥協主義者のすがたではないでしょうか。
 しかし、よりひろい視点からみると、パラントが「アリスト」に象徴させようとこころみた、「貴族的個人主義 individualisme aristocratique」が、社会との無条件かつ徹底的な対決のみを目的とする「シュティルナー的個人主義indivicualisme stirnérien」と対置される、賢明な中庸性、包容性といった徳を、『亭主学校』のアリストはもっていると見ることができます。
 また、貴族的個人主義のもうひとつの側面、「観照的個人主義 individualisme spéctaculaire」という面も、『亭主学校』のアリストのなかに見いだすことができるように思います。結末にほどちかいところで、つぎのようにいっています:

        ARISTE
 Mon frère doucement, il faut boire la chose,
 D'une telle action vos procédés sont cause,
 Et je vois votre sort malheureux à ce point,
 Que vous sachant dupé l'on ne vous plaindra point. (Acte III, Scène IX)

        アリスト
 弟よ、しずかに、なりゆきをうけいれなければならない、
 こうしたことは、おまえのしかたが原因なのだ、
 その点で、おまえは運がわるかったとおもうが、
 おまえがだまされたと知っても、だれも同情はしないよ。

 これは、スガナレルが後見人をつとめるわかい女性イザベルをあまりに窮屈にしばりつけていたので、イザベルが一計を案じて恋人ヴァレールと結婚をきめたあとに、かねてよりスガナレルの態度に批判的だったアリストが言いはなつことばです。
 ここには、あくまでも冷静におろかさをさししめす、「観照的個人主義者」の一端があらわれているといえるのではないでしょうか。

 『女学者』についてはなお今後の課題にします。


 ここのところ、パラント研究は開店休業状態なのですが、もともと余技のようなものなので、間欠泉のように息ながくつづけたいと思っております。
 まえの記事につづいて、またN先生からご教示たまわりました(ありがとうございます)ので、メモしておきます。パラントの著作に数回だけ、説明なくつかわれている「アリスト ariste」という概念についてです。拙訳書ではこれをパラントの造語とみなし、「ギリシア語 αριστος からつくられたもので、『卓越せる者』という趣旨であろう」と註釈したのですが、じつはモリエールの『亭主学校』と『女学者』にそれぞれアリスト Ariste という登場人物が出てくるので、それとの関連は考えられないか、というお話でした。これまた、宿題とさせていただきたいと思います。



 Claude Cahun
 http://fr.wikipedia.org/wiki/Claude_Cahun

 クロード・カアンは、ジョルジュ・パラントと同時期に『メルキュール・ド・フランス』誌に執筆していたほか、パラントへの賛意も表明しているとのこと。はずかしながら、きょうはじめて知りました。ご教示くださった N 先生、ありがとうございます。

 ゴビノーの『プレイヤード』に、つぎのようなくだりがある。

 Il ne m'agrée pas de voir un peuple jadis si grand, désormais couché sur le sol, impotent, paralysé, à moitié pourri, se décomposant, livré aux niaiseries, aux misères, aux méchancetés, aux férocités, aux lâchetés, aux défaillances d'une enfance sénile, et propre à rien, sauf à mourir, ce que je lui souhaite sincèrement, afin qu'il tombe hors du déshonneur où il se vautre en ricanant d'imbécillité. (Gobineau, Les Pléiades, p.228)
 (かつてまことに偉大であったが、いまや地べたに横たわり、動けなくなり、麻痺し、なかば腐り、解体して、愚行や悲惨さや悪意や獰猛さや臆病や耄碌に身をゆだね、愚かしさを嘲笑しながらもそのなかに溺れる恥辱をまぬかれるためには、死ぬ--それをわたしは心から彼らにのぞんでいるのだが--しかないようなひとびとを見るのは、わたしには耐えられない)

 理想はストア派哲学にわずかに生き残っているのみであるとするゴビノーは、まちがいなく堕落史観の徒であり、パラントのことばをかりていえば、史的悲観主義 Pessimisme historique を標榜するものである。

 この言明は、個人史にも妥当するように思う。
 としとともにひとが獲得する社会的巧緻性とは、けっきょく、恥知らずな策術を弄することであったり、安直な方途をばかりをえらぶようになることであったりする。
 いくつかの徳目において、わたし自身も、わかいころのほうがはるかにましだったと思う。
 失ったものは、未熟ゆえに悪しき因襲をも修得していなかったあの原初的無垢、幼年的清廉である。
 これらのものは、社会的技能を「修得」すればするほど、それに反比例するかのように「喪失」せざるをえないという、逆説的な徳目である。
 その一方で、「経験」がゆたかになるにつれてつちかわれるものといえば、最近「鈍感力」などとよびなされ称揚されるところの、ありていにいって「つらのかわの厚さ」だけである。
 ゴビノーが死をこいねがうひとびと、その群れのなかに、まちがいなくわたしもはいってしまった。


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