ジョルジュ・パラントにかんする雑記帖

 11月10日の記事で言及した Depenne による2巻本をようやく入手した。
 冬休みに読みたいものだが、ほかのしごともたまっているので、どうなることやら。

PC112676
 Souvenirs sur Georges Palante が来年覆刻されるらしい。
 旧版が手にはいらず、わたしにとってはまぼろしの書物だったので、たいへんよろこばしい。

 Louis Guilloux : Souvenirs sur Georges Palante
 Éditeur : Diabase
 Parution prévue : 10 avril 2014
 ISBN : 978-2911438936
PB162575

PB162577

 明治大学リバティータワー。大学とは思えないほど、ぜいたくな建物だ。
 ここでひらかれたシンポジウムで、知り合いの田中ひかるさん、飛矢崎雅也さんが発表なさるので、きいてきた。
 http://palante.blog37.fc2.com/blog-entry-63.html

 夕方、さいごまでゆっくりきければよかったが、わたし自身の仕事もたまっているので、午前中のみ出席し、田中さん、飛矢崎さんと、栗原康さんの発表をきいていた。いずれもたいへん興味ぶかかった。
 田中さんとは2006年の秋以来、ひさしぶりにお目にかかった。発表者、オーガナイザーとしてお忙しそうにしておられたが、少しことばをかわすことができた。
 田中さんの発表は、こんにち世界ぢゅうにひろがりつつある「グローバル・アナーキズム」という全体テーマに即しながらも、1920年代にも国民国家のわくを超えた交流が見られたこと、それがあまり研究されていないことを摘示するものであった。
 栗原さん、飛矢崎さんは大杉栄の研究者だ(大杉栄の研究者が複数集まるだけでも奇跡的ではなかろうか)。
 飛矢崎さんの発表は、6年前、論壇をにぎわせた赤木智宏氏の言説をめぐって、その思想よりも心情を重視し、大杉栄のいう「生の拡充」、「美は乱調にあり」を対置した。そして、「生の拡充」を具現化した比較的最近の事例として、「素人の乱」をあげた。
 じつは飛矢崎さんの肉声をきくのははじめてで、たいへんちからづよい話しかたをなさることにおどろいた。こういってはなんだが、わたしなどよりよほど教員らしい(笑)。
 栗原さんの発表は、大杉栄の米騒動論から出発してこんにちのニホンの状況におよぶものであったが、「社会」なるものに対する徹底して否定的な見かた(それはアナーキズム方面でもかならずしも共有されていない)が、わたしが関心をいだいているジョルジュ・パラントの思想ともあい通じるものであるように思った。
http://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/65027/1/D_Kohara_Kazuma.pdf

 ひさしぶりに「母屋」のページに手をいれました。
 この「雑記帖」のひとつまえの記事でもとりあげた研究書を文献一覧に追加したほか、「サン=ブリユー、イリオン探訪記」を追加しました。

 サン=ブリユー、イリオン探訪記
 http://www.ne.jp/asahi/watanabe/junya/palante/st_brieuc_et_hillion.htm
Depenne1 Depenne2


 の2冊が出版されていたことに気づいた。さっそく註文しておいた。
 シンポジウムのお知らせをいただいたので、以下に貼りつけておきます。

国際シンポジウム 「グローバル・アナーキズムの過去・現在・未来~世界とアジアをつなぐために」
http://kansaianarchismstudies.blogspot.jp/

日時:2013年11月16日(土) 10:00~17:00
場所:明治大学駿河台キャンパス リバティータワー1083教室(以下のURLを参照)
http://www.meiji.ac.jp/cip/english/about/campus/surugadai.html

報告者:ガブリエル・クーン、飛矢崎雅也、栗原康、樋口拓朗、田中ひかる
コメンテーター:山中千春、仲田教人

主催:関西アナーキズム研究会、共催:グローバル・アナーキズム研究会、
Irregular Rhythm Asylum、オペライズモ研究会。
連絡先:joh.most(at)gmail.com

主催者より:今日アナーキズム運動は欧米を中心に、中南米、東南アジア、中東、
アフリカにおいて拡大し、それは”グローバル・アナーキズム”ともいうべき様相
を呈している。この現象は、新自由主義という単一の原理に基づくシステムに、
地球上にいるあらゆる個人が、自らの意志に関わりなく巻き込まれ、支配される
ことに抵抗し、グローバルに連携することによって生み出されていると言える。
日本とアジアはこのような動向に結びつくのだろうか。日本におけるアナーキズ
ムの過去を知ることは、このような現在と未来のアナーキズムを見据える上でど
のような意味があるのか。ガブリエル・クーン氏をゲストに迎え、グローバル・
アナーキズムの過去・現在・未来を見据えながら、世界とアジアが接続する可能
性を問うのが、今回のシンポジウムの趣旨である。

より詳しい趣旨説明は、以下を参照(英語・日本語併記)
http://kansaianarchismstudies.blogspot.jp/2013/10/explanation-of-aim-in-holding-symposium.html


ガブリエル・クーンさんのトランスナショナルなアナーキズムについての言葉:
・・・それと同時に、私たちには、あらゆる経済的な違いを超えて人々と共有し
たいという多くの日常的な欲求があります。つまり、様々な階級と文化に属する
人たちと食事をともにしたい、サッカーをしたい、コンサートをしたい、デモを
したい、という欲求です。[中略]反植民地主義的でトランスナショナルな共同
体の形成は、したがって、私たちが共有している、日々の欲求や願望を出発点に
しなければいけません。このようなレベルで、私たちは結びつき団結することが
できます。この結合と団結こそが、私たちを分かつ経済的な境界線に対してとも
に戦い、私たちの分断を固定化する政治的な構造に対してともに戦うための条件
なのです(ガブリエル・クーン「フィリピンのアナーキズムとトランスナショナ
ルポリティクス」『多様性、運動、抵抗 アナーキズム論文集』2009年 from
Gabriel Kuhn, "Anarchismus auf den Philippinen und transnationale
Politik", in: Vielfalt, Bewegung, Widerstand, Texte zum Anarchismus,
Munster: Unrast Verlag, 2009, p.86)。

ガブリエル・クーン、プロフィール: 1974年オーストリア生まれのアナーキス
ト、活動家、著述家・翻訳家。著書は、甘糟智子訳『アナキストサッカーマニュ
アル』(現代企画社、2012年)ほか、ドイツ語資料集『アメリカにおける「新し
いアナーキズム」 シアトル以降』(2008年)、ドイツ語論文集『多様性 運動
  抵抗』(2009年)、世界各地のアナーキストへのインタビュー資料集(共編著)
『ジャカルタからヨハネスブルクまで 全世界のアナーキズム』(2010年)、海
賊とアナーキズムについて(夜光社より近日翻訳刊行予定)『海賊黄金時代につ
いての省察』(2010年)、『革命のために生きる ハードコア・パンク、ストレ
イトエッッジ、ラディカルポリティクス』(2010年)、(編訳)『すべての権力
を評議会に! ドイツ革命ドキュメンタリー 1918-1919年』(2012年)など多
数。

そのほかの報告者・コメンテーターのプロフィール:
栗原康:武蔵野学院大学非常勤講師。主著『G8 サミット体制とは何か』(以
文社、2008年)など。2007年のハイリゲンダムG8サミット対抗行動に参加し、
2008年の洞爺湖サミットでは国外からの活動家のコーディネート役を務める。
栗原氏の報告要旨:
http://kansaianarchismstudies.blogspot.jp/2013/10/summary-of-first-presenters-report-of.html


飛矢崎雅也:明治大学政治経済学部助教。主著『大杉栄の思想形成と個人主義』
(東信堂、2005年)など。

樋口拓朗:アナーキスト。G8対抗行動をはじめアジアや欧米各地の運動に参加。
主著「群島のアナキズム」『気流舎通信 SOMA』Vol.1、気流舎、2013年、
20-23頁。

山中千春:日本大学研究員。主著:「文学による<革命>として-佐藤春夫「美
しき町」とホイッスラーの芸術論」(『欧米文学・言語学・比較文学研究』23、
2012年、166-186頁)など。

仲田教人:早稲田大学大学院博士課程単位取得満期退学。反G8サミットなど多く
の行動に参加。

田中ひかる:大坂教育大学教員。主著『ドイツ・アナーキズムの成立-『フライ
ハイト』派とその思想』(御茶の水書房、2002年)など。

シンポジウムポスター
http://4.bp.blogspot.com/--LUsN39sDBs/Um-uh5c_X0I/AAAAAAAAAgU/rMkU6VT6qTE/s1600/poster.jpg
 インターネット上の情報で、

 市川裕史 (2011) :「フランスのパンク文学 (5) : ジョルジュ・パラントとパンク哲学」『津田塾大学国際関係研究所報』46号。
 http://www2.tsuda.ac.jp/kokken/shohou_backnumber.html

 という論文の存在にいまさらながら気づいた。「パンク」という観点も新鮮だ。
 しかも、市川さんは、毎週月曜、白百合女子大学への非常勤出講時にお目にかかる機会のある先生ではないか!
 明日(月曜)、さっそく声をかけるつもり。

 [後日追記] 市川さんに直接お話しでき、ご論文をいただくことができました(歓喜)。
 一読しておどろきましたが、論文の文体をつきやぶり、「パンク哲学だぜ」とか「おもしれえ」とか書いているのが衝撃的です。しかし、このような論じかたこそが、パラントを語るにふさわしいような気がしてきました。
 わたしが2006年に書いた軽い紹介文をべつにすれば、日本語でパラントに関する論文が書かれたのは1928年に宮山栄が「ジョルジュ・パラントの所論について」を書いて以来じつに83年ぶりで、この意味でも記念すべきことです。
 まともに内容について語ることは、わたしもいずれ、論文のかたちでこころみたいと、希望だけはしております。
 ながらく放置していたパラントのページですが、また少しづつ手をいれていきたいと思います。
 まずは前時代的なページデザインを一新しました。

 http://www.ne.jp/asahi/watanabe/junya/palante/palante.htm

 2003年から2011年にかけてネット上で書いて、いまは消滅した雑文をまとめたものをつくってみました。
 パラントとその周辺にふれた文もいくつかあります。

 雑文集≪閑適抄≫
 http://www.ne.jp/asahi/watanabe/junya/kanteki/


Le hérisson et le renard

Irène TAMBA
Le hérisson et le renard : une piquante alliance
Paris, Klincksieck, 2012.
160 pages
23 euros
ISBN: 978-2-252-03839-0

http://www.klincksieck.com/livre/?GCOI=22520100390230

Présentation de l'éditeur :
La mention la plus ancienne de ce couple aussi énigmatique que paradoxal remonte à un aphorisme du VIIe siècle avant J.-C., consigné dans un vers isolé d'Archiloque, le premier poète lyrique grec : « Il sait bien des tours le renard. Le hérisson n’en connaît qu’un, mais il est fameux ». Et son dernier avatar date de 2002, dans l’ouvrage posthume du biologiste paléontologue, Stephan Jay Gould, Le renard et le hérisson. Union d’un symbolisme fluctuant.
À la Renaissance, Érasme ressuscite le proverbe grec sous un habit latin en opposant les multiples ruses du renard à l’unique mais imparable stratégie du hérisson, qui se roule en boule. Au XXe siècle, le philosophe essayiste oxfordien, Isaiah Berlin, réhabilite l’image d’Archiloque pour distinguer deux catégories antithétiques de penseurs et d’écrivains : les hérissons, monistes, face aux renards, pluralistes. Au début du XXIe siècle Gould veut dépasser la dichotomie de Berlin et rabibocher le renard et le hérisson, en les prenant pour emblèmes de la divergence et de la complémentarité des sciences et des lettres.
Irène Tamba mène une véritable enquête retraçant le parcours sinueux où se croisent des problématiques telles que l’usage de mêmes noms pour certains animaux terrestres et marins ou encore la classification des animaux et leurs dénominations populaires ou scientifiques.

Sommaire :
Préface
Première partie. Le renard et le hérisson : les tribulations d'un couple énigmatique
 I. Le couple métaphorique du renard et du hérisson chez Clifford Geertz
 II. Stephen Jay Gould et le couple humaniste du renard et du hérisson
Deuxième partie. Le renard et le hérisson : noms et représentations lexicales
 III. Le renard et le hérisson : appellations et représentations actuelles
 IV. Les ancêtres grecs du renard et du hérisson
 V. Les ancêtres latins du renard et du hérisson
Troisième partie. Homonymie et noms d'animaux
 VI. Les noms d'animaux
 VII. Homonymie et catégorisation populaire des animaux
Conclusion
Bibliographie

 新年度の風物詩のように入社式が報道され、ときおりそれにともなう奇矯なイヴェントもまた、受容すべき「社風」として肯定的にえがかれているのをみると、なにやら、≪もう飛ぶまいぞこの蝶々≫といったこころもちになってしまう。
 そして、このようなときにいやというほど反復される「社会人」という表現にも、たいへんな違和感をおぼえる。これについては、わたしの旧ブログ(2004~2010年)で、2005年5月9日に書いた記事、「「社会人」というおぞましいことばをめぐって」を以下に再掲しておこう(なお、当時採取された魚拓がつぎのところにある http://web.archive.org/web/20100323170549/http://blog.muzik.gr.jp/junya/main/archives/2005_05.html )。

「社会人」というおぞましいことばをめぐって

いまさらいいふるされたことではあるが、「社会人」とは、いくえにも不愉快なことばだ。
あらゆるひとは、どれほどいやでも社会に「強制加入」させられている(ほんとうにつかわれることばとしてある年金の「強制加入」もまた、まさしくその事実の一環としてある)のであるから、「社会人」ということばじたいは、ほんらい「白い雪」とおなじくらい剰語的なはずだ。
が、その剰語性が、おぞましい解釈に介入する余地をあたえてしまったようだ。たいへん奇妙なことに、じっさいには、賃労働に従事していなければ「社会人」とはよばれない。しかし、賃労働がそんなにりっぱなものなのか。企業倫理の堕落や、役所の腐敗ばかりが目立ついま、賃労働に従事することがむしろ、害毒をたれながすことと同義になる局面さえあるではないか。
それはさておくとしても、「社会人」なるものを、あたかも対概念のように「学生」と対置する範列はいやというほどみせられている。しかし、まさか学生が社会の一角をなしていないなどと言うつもりではなかろう。

こうした問いへの対処としてあみだされたのかどうかはわからないが、「実社会」というべつの剰語がある。なんの意味があるのか。「実社会」と対置するべき「虚社会」があるとでもいうのか。そんなものがあるのなら示してほしい、わたしはむしろそこで生きたいから。
かくして、「実社会」とは、経済や政治など、社会の動因とみなされている領域にかかわるもののみをかこいこみ、それへの実利をもたらさないと(じつはたいした根拠もなく)おおかたに断じられたものを排除する仮想団体である。
大学教員で、しかも言語学という(これまた、じつはたいした根拠もなく)「非=実学」とみなされている学にたずさわっていると、これはもう「実社会」からは遠い、世間ばなれした人間であって、「社会人」であることはいちおうみとめるにしても、かなり周縁的な成員であるとみなされるらしい(ことなる職業をもつひとたちとの遠慮をおかない酒席で、「カタギではない」という素朴で愉快な形容をちょうだいしたことがあった)。

ここで、「実社会」観念をおぞましいといいながらも、排除を不当だといっているおまえ自身は、「実社会」へ編入されたいのか、されたくないのか、混乱しているのではないかという反問が予想される。
もちろん、されたくない。されたくないから、じっさいに、「実社会」と一般に想定されているものからは遠ざかるようにこころがけ、その仮想団体の外側か、かなり周縁部に棲息しているつもりだ。
しかしそのようにして質問にこたえること自体がまずいかもしれない。実利的であるとみなされている範囲が、幻影にすぎないのであるとしたら、それにくわわりたいといっても、くわわりたくないといっても、無根拠な前提をともにみとめることになってしまう。

もっとも、つごうよくじぶんたちの棲息する擬似的空間を表象するために、「実社会」のようなメタファーがあるのだとすれば、うらがわからもそれをつごうよく利用させてもらうこともある。
たとえば、学生の就職指導を大学教員にもとめられる場合、学的なキャリアーだけをもっている教員は、「実社会」の経験がもっともとぼしい人種であるから、企業就職などを指導するにはもっとも適しないといって逃げるわけだ。ほんとうは劃定できないものであるからこそ、つごうよくつかわせてもらうこともできる。

「社会人」「実社会」ということばを、わたしのようにあくまでも反語法的言及をあらわす括弧つきでしかつかえないひとと、当然のようにつかえるひととのメンタリティーのちがいは、たいへん大きいようにおもう。
「社会人」「実社会」ということばをあたりまえにつかえるひとは、明示的にせよ暗示的にせよ、「実社会」の現働化にちからをかしていることが「生きがい」であり、多かれ少なかれ貴いことであるようにおもっているひとが多いように思う。しかし、それが自己過信であることは、しばしば事実によって証明される。
たとえば、企業につとめるひと、とくに男性で、病気や育児休暇などの理由でしばらく休職して、職場に復帰したとき、自分のいない間にも会社がさしつかえなくまわっていたことを知り、自分はいなくてもよかったのかとショックをうけた...という話を、いくつものちがうところで耳にした。
しかしそんな話は、きいているこちらのほうが、ショックがおおきい。そんなことを本気でおもっているのだろうか。わたしなら、みとめられて休んだのなら、そのあいだのことなど知ったことではないし、かりに責任を感じるとしたら、むしろうまくまわっていたことをよかったと思うほうだ。
些末な例のようだが、あんがいこんなところに根柢的な考えかたのちがいがあらわれているのではないかとおもう。

...「公共の利益」、「一般意思」、「全員の幸福」といったイデオロギーも、おなじ幻影の原則、精神を魔法にかけ、社会的法則に従属させる最終的調和の見とおしにもとづく。これらすべてのイデオロギーの根柢に、おなじ詭弁、おなじ循環論法がみられる。すなわち、「真の利益」「真の幸福」は、社会のために役立つことであると証明する際、とわれていることを前提にしてしまっているのである。そこから出発して、さらに、ちがったふうにふるまうあらゆる個人は、「いつわりの幸福」をおいもとめているにすぎず、そのようにして他者にも自分にも害をおよぼすことをやめさせなければならないと宣言するにいたる。「一般意思」、「公共の利益」、「連帯」もまた、同様のイデオロギー的妄想であり、個人を、うたがわしい影でおいまわし、支配するのである。それらの妄想はまた、ルクレティウスのいう「宗教の亡霊」にも似る。
―― G. Palante, Les antinomies entre l'individu et la société, p.160. 拙訳。

 もう7年まえなので、いまわたしが書いている文よりさらに青くさい文だが、おおすじではいまも考えはかわっていない。ちなみに、この記事は、「はてなブックマーク」や、「2ちゃんねる」(!)でも関説されていたことを、いまさらながら知った。

 一昨日(4月1日)、ふだんならただ説教くさすぎて読むはずのない朝日新聞の求人欄の連続インターヴューに、内田樹氏が登場しておられたので、一読したあと、内田氏のウェブサイトを見たところ、「『赤毛同盟』と愚鈍の生成について」という、いっそう興味ぶかい記事があった( http://blog.tatsuru.com/2012/03/22_1721.php )。
 新聞にどれだけ思いどおりの内容が掲載されるかわからないので、手かげんのない内容はウェブサイトにしるしておくということらしい。新聞への掲載は4回中の初回なので、読者としてはまだこのあとどのようになるかがわからないが、初回に一部掲載された、対応する部分の内容をみるかぎりでは、たしかに、すでに若干オブラートにくるまれているように感じた。なお、新聞の内容も順次ウェブサイトに転載してゆくようだ( http://blog.tatsuru.com/2012/04/02_1306.php )。
 わたしは、「『赤毛同盟』と愚鈍の生成について」の冒頭ちかくにある、

若い人たちの言う「自分の適性にあった職業」というのは、装飾を削ぎ落として言えば、「自分の手持ちの資質や能力に対していちばん高い市場価値がつけられる職業」のことである。

というくだりにだけは賛成できない。
 わかいひとのいう「適性にあった職業」は、おそらくもっと感性的に、ここちよくそのことにかかわっていられる、という程度のことを意味しているのではないかと思っている。そうでなければ、「あこがれの業界」であるから、などという理由で、雇傭としてはきわめて劣悪な条件をしのんで、ながねん苦労しつづけている若者たちもまた、おびただしくいるという事実を説明できない。
 しかし、それ以降でのべられている、「費用対効果を最大ならしめる戦略」の愚かさについては、まったく同感である。部分的に引用しよう。

消費者マインドを刷り込まれた人たちは、「限られた持ち金でどれだけ有利な取引をするか」、費用対効果にしか興味がない。
それは大学で教えているとよくわかる。
学生たちは単位や資格や学士号の「市場価値」はよく知っている。
だから、それを手に入れることを願っている。
でも、条件がある。
「最低の代価で」というのがその条件である。
消費者なんだから当然である。
最低の代価でもっとも高額の商品を手に入れたものが「賢い消費者」である。
学生たちは子どものころから「賢い消費者であれ」ということを、ほとんどそれだけを家庭でも学校でもメディアからも教え込まれてきた。
だから、大学生にとって最優先の問いは、「最低の学習努力で最高の教育商品を手に入れるためにはどうふるまえばいいか」である。
単位をとるために必要な最低点が60点で、出席日数の最低限が3分の2であるなら、「きっかり3分の2だけ授業に出て、きっかり60点の答案を書く」学生がもっともクレバーな学生だということになる。
たしかに、今の学生たちはそう信じている。
60点で合格できる教科で100点とる学生や、3分の2出ていればいい授業に皆勤する学生や124単位とれば卒業できるのに180単位もとった学生は「100円で買える商品に200円出している消費者」と同じようにナンセンスな存在なのである。

 わたしが学生だった二十数年まえは、このような行きかたは、とりわけ修学時代にあっては、すくなくともおもてむきは忌避されるべき、「小ざかしい」、「はずかしい」ふるまいであるという共通理解があったように思う。規準的な「到達目標」との対比での圧倒的な超過達成は、同級生のあいだでも尊敬をあつめていたし、それこそがほんとうの「目標」のように目ざされていた感がある。
 しかし、「それに対して現今の学生は、、、」などといいだしては、おそらく、いけないだろう。いまの学生の一部としてそのような「消費者マインド」があることはまぎれもない事実だが、かつてそのような傾向がなかったといえば、うそになる。むしろ、そのような傾向が存在したからこそ、「小ざかしい」と忌避されていたのだろう。いつの時代にも、小ざかしい者はいる。

 ところで、以前もいまもかわらず、「消費者としての賢明さ」を修学にもちこむことの愚かさはまた、じつはそれがけっして「効率的」でもなければ、「有利」でもないところにもあると思う。
 むしろ、小ざかしい計算をいっさい無効にするほどの「圧倒的な超過達成」こそが、すべての展望を一挙にひらくという意味で、もっとも「効率的」であり、「有利」なのである。
 上で自己引用した旧ブログでも表明した、どちらかというと徒食者的なわたしの態度からは、このような「最大限綱領」的な言明は予想できないかもしれないが、ナマケモノであればこそ、ほんとうの「効率」を直感していたのかもしれない。

 「『赤毛同盟』と愚鈍の生成について」での内田氏の議論はさらにすすみ、ふたたび一部引用すると、つぎのようなことをおっしゃっている。

有利な交換を求めるものは、自分が市場に差し出す手持ちの財の価値を他者が過大評価することを切望する。
当然である。
けれども、この「賢い消費者」たる交換比率原理主義者をあるピットフォールが待っている。
それは、「彼が市場に差し出す財の価値がゼロであるとき、交換比率は最大になる(だって無限なんだから)」ということである。
つねにより有利な交換比率を求めるものは、自分の手持ち資源の価値ができるだけ過大評価されることを願う。過大評価のカーブは、市場に差し出す自分の手持ち資源の価値がゼロであるときにその最高点に達する。
つまり、ひたすら有利な交換を願うものは、その論理的必然として、やがて自分の手持ちの資源の価値がゼロであることを願うようになるのである。
悪魔的なコロラリーだが、現に、日本社会はそうなっている。
学生たちは愚鈍さを競い、労働者たちは他の労働者が自分より無能でかつ薄給であることを喜ぶという倒錯のうちに落ち込んでいる。
それは彼らが怠惰であったり、不注意であったりしているからではなく、「有利な取引をするものが賢い」という市場原理のルールをあまりに深く内面化したことの帰結なのである。

 「労働者たちは他の労働者が自分より無能でかつ薄給であることを喜ぶ」というのは、「自分の手持ちの資源の価値がゼロであることを願う」こととは明白にことなるので、ここにもいささか飛躍があるように思うが、しかし市場比率主義のゆきつく先が、全体として低い水準での競争を希求することであるという趣旨は理解できる。


 Le Coffret についてふれたひとつまえの記事をめぐって、友だちのTさんからから、つぎのようなおたよりをいただきました。ありがとうございます。

> 21世紀の独裁体制は、常に「自由」を売り物にしていることにだんだん気付いてきました。
> このことは、今までの未来小説では描かれてこなかったのではないでしょうか。
> 自由市場で売れないものは、出版されない。
> 誰も本は買わないから、出版されない。
> そういう説明ならば誰もが納得し、コントロールされているなんて夢にも思いませんよね。
> 「読めなくなっている」という事実に、誰も気付かない。むしろ「ますます自由で奇想天外な商品が溢れている」とみんな錯覚する。
> 本を読ませたくなかったら、権力者は、そのように市場をコントロールすると思います。
> それに気付いた人間が、インターネットで禁書を読もうとすると、妨害されるというパターンになるのではないでしょうか?


 Le Coffret でえがきだされている近未来の社会は、まさにそのような経過をたどって成立したものだと思います。
 その社会では、人民の圧倒的多数が自分を自由と信じ、現状に満足しており、主人公のようなひとにむけては、「なぜ自分から自由を捨てて、苦労をしようとするのだ。だれもおまえに常道を踏みはずすよう強制してはいないじゃないか」という、顛倒した「自由 / 強制」のことばづかいでの批判がなされる、というぐあいです。

 とりわけ、生産のテクノロジーや、社会の平穏に有害とみなされた「哲学」がたどる運命は象徴的です。
 それはまず、「知の科学」という偽装的名称に回収され、そのなかで、たとえば『士気が低いときにいかに喜んで働くか』というようなハウ・トゥー本ばかりが評判を得るようになります。
 そして、動画や電子媒体に本そのものが地歩をゆずり、「知の科学」も終焉し、ついには全面的な禁書の時代になります。
 ニホンの現状は、もう「知の科学」段階か、それ以上まで自然に来てしまっているのではないかと思います。
 いや、いまおもいかえすと、1990年代後半に、東大教養学部が仕掛けて、けっこうニホンぢゅうが浮かれていた『知の技法』ブーム(なんという偶然だろう、名まえが絶望的に類似している!)が、じつは「知の科学」段階の徴候だったのではないでしょうか。

> それにしても本当に今の日本は仰るとおり既にdystopie を地で行っているようですね。
> そして dystopie というものは、実はutopie と区別がつきにくいのかもしれません。


 この点にも賛意を表したいところです。
 ほんとうのディストピアが到来するときは、じつは黙示録的なおどろおどろしさはなく、当然の帰結とも思えるほどのなめなかな歩みなのでしょう。
 ステファヌ・ボーさんはジョルジュ・パラントの著作の多くを編集・再刊するなど、パラントに格別の思い入れをもっているひとですが、Le Coffret にはパラントの著作、とくに Pessimisme et individualisme の影響を色濃く感じました。
 抑圧が抑圧であるとさえ感じられなくなることによってこそ、ほんとうの抑圧が成立するのだ、という考え方です。
 Pessimisme et individualisme の結論から引用します:

≪Il arrivera un moment où les chaînes sociales ne blesseront presque plus personne, faute de gens suffisamment épris d'indépendance et suffisamment individualisés pour sentir ces chaînes et pour en souffrir. Le combat finira faute de combattants.≫(社会的な桎梏を感じとり、それを苦しく思うにじゅうぶんな独立性への情熱をいだき、じゅうぶんな個性をもったひとが少なくなるため、もはや社会的な桎梏が、ほとんどだれをも傷つけないようなときがくるだろう。闘争は、たたかう者がいないせいで終息するだろう。)

 そうすると、幼稚なことをいうようですが、苦しいことを苦しいと思えるニンゲンであることが、出発点として重要なのではないかと思います。
 あ、これもパラントがすでに言っていることでした。パラントのことばでいえば、≪pessimisme expérimental≫というものです。
 楽観主義は、ライプニッツにおけるごとく、抽象性とむすびついているのにたいして、悲観主義こそは、現実の、なまの苦しみにもとづいている。その苦しみによってこそ lucide たりうるという考えかたをしています。

> 未来に本が禁止される独裁社会の訪れる話は、トリュフォーの「華氏451度」が有名ですが、あれは純粋に「もしもそうなったら」という作り話のよ うで
> あまり説得力のなかった記憶があります。是非 Coffret を読んでみたいです。


 Fahrenheit 451 と比較した書評が、ネット上に出ていました:
 http://anagnoste.blogspot.com/2011/08/stephane-beau-le-coffret-laube-de-la.html
 ここで Fahrenheit 451 とくらべて Le Coffret にみとめられている「低温性」というものは、やはり、ほんとうにディストピアが到来するときの状況を、より正確にうつしている、ということなのかもしれません。

 Stéphane Beau : Le Coffret, Éditions du Petit Pavé, 2009 (ISBN : 978-2-84712-217-6, 定価 € 15 )

 この本を書いたステファヌ・ボーさんは、わたしがジョルジュ・パラント Georges Palante の訳書をだしたとき、序文を書いてもらったり、彼が編纂したパラント全集の序文に友情出演させてもらったりした仲だ。




 わたしのラテン語解読がまちがっていなければ、表紙にあしらわれているのは、18世紀にローマ教会が発した禁書目録のようだ。

(以下、ねたばれ注意)

 Le Coffret は、ひとことでいうと、ディストピア小説だ。
 えがかれているのは、労働効率や生産性が徹底して追求され、危険思想の源泉として書物が禁止されているという、2090年代のヨーロッパだ。そこでは、「哲学」さえもが、もっぱら否定的なコノテーションを帯びている。
 そのなかで主人公ナタナエル・クリルは、かれの亡き祖父ジャン・クリルが書いた叛逆的(と社会的にみなされている)作品 À l'aube de la dictature universelle とともに、モンテーニュ、ニーチェ、フロイト、ジョルジュ・パラントなどの禁書を、屋根裏部屋にしまいこまれた箱(これが題名の coffret だ)から発見し、ひそかに読みふける。
 しかし、とくに信頼していた職場の友人にそのことを打ち明けたところを、第三者に録音され、公安警察からの追及をうけることになってしまう。
 主人公の祖父のジャンの著書 À l'aube de la dictature universelle もまた、入れ子構造になって Le Coffret のものがたりのなかに挿入され、主人公の考えや、たどる運命とかさなりあい、すれちがいながら、重層的かつ相互作用的テクストとして進行してゆく。

 しかし、Le Coffret のなかでディストピアの描写として示されている事象は、いまのニホンですでに実現しているように思えてならない。
 だいたい、書物など、禁止されるまでもなく、死に絶えつつあるのではなかろうか。また、「週45時間におよぶ長時間の労働」がディストピアの徴候としてえがきだされているが、ニホンでは完全に現実になっているだろう。
 とりわけ、親友とおもっていた同僚が主人公になげかけるせりふ、
 「おまえはなんのはなしをしているのだ? おまえの質問はなんだ? おまえがそんなにややこしい話しかたをするのは好きじゃないなあ。おまえの問題はなんなんだ、おまえが話題にしている連中、「哲学者」とやらはなんなんだ? 「哲学者」というのは、あんまりまともな話をしているようには思わないなあ」
 などというのは、多少なりとも真剣な話をしようとすると、いまのニホンでも、ほとんどいたるところからきこえてきそうな思考嫌悪、知性嫌悪ではなかろうか。
 嫌悪だけならまだしも、体制による馴致をこばむ独立的な思考を、人倫に背馳しているかのようにおとしめる傾向が、すでにいまのニホンにはあるように思う(たとえば、「反原発」の表明に反社会的煽動者のレッテルをはる者など。そういうひとにかきって、すでに1京5000兆ベクレルの放射能を放出した東京電力をほぼ不問にする。どちらが「反社会的」か)。

 ものがたりのつづきは、このようになる。公安警察の刑事ミルモンがナタナエルのものをおとずれ、家宅捜索により禁書を発見されてしまう。
 しかし、ミルモンが「思想犯に、敵対者としてまともに応対するに足るだけの信念をもっているものはいない。それどころか、社会全体の現象として、自身の責任をひきうけない脆弱な精神のもちぬしばかりになってしまった。あらゆる社会的危険をあらかじめ除去する政策が徹底された結果だろう」という趣旨のなげきをもらすことから、そのときの会話は意外な方向に進展する。
 ナタナエルは、それこそがまさしく、禁書としてミルモンが追求しているはずのジョルジュ・パラントの書物に書かれていることだという。
 「決断力と責任とは不離の関係にある。個人の決断力のおとろえは、責任感のおとろえをひきおこす。現代の精神の特徴は、個人の責任にたいする恐怖である。集団的責任のなかに、個人の責任を溶かしこんでしまおうとする欲望である」)(ちなみにこれは、じっさいにパラントの著書のひとつ、『個人のためのたたかい』の一節である)
 ナタナエルが連行されようとしたとき、その日まで内偵のために長らく路上駐車しつづけていたミルモンに近所の女性が苦情を呈する。そのすきに、ナタナエルはほとんど直感的に、まだ読み終わっていなかった祖父の本だけをつかんで逃げだす。気づいたミルモンは、小銃をとりだし、逃走をこころみる者を射撃することもできたが、一瞬ためらい、ナタナエルをとりにがす。
 ナタナエルはうちすてられた郊外の廃屋に身をひそめ、数週間にわたる孤独で困難な逃亡生活をおくる(「自由には対価がともなう。それは孤独である」)。 しかし、その生活のおかげで祖父の本を読みつづけることができる。
 飢えと渇きと寒さから健康をそこない、ナタナエルはひそかに自宅にもどる。なにも変わっていない。À l'aube de la dictature universelle で、祖父がいったん釈放されて、自宅にもどったときと類似している。祖父の本をみつけた屋根裏部屋で昏昏とねむる。
 目覚めるとミルモンがきていた。変わりはてたナタナエルをみて、ミルモンは救急車をよぶが、ナタナエルは窓から身をなげる。死がある以上、人間に自由はない。それでも自由人を称するものは、死をおそれない。ナタナエルが一命をとりとめたかどうかはよくわからないまま、ものがたりは結末をむかえる。

 ナタナエルがだれに迷惑をかけたというのか。かれはただ、祖父が書いた書物、祖父に影響をあたえた書物を読もうとしただけだ。それが2060年代の法規で禁止されていたのはなぜか。生産性低下、社会紊乱をもたらすものとして、いわば予防的に禁止されていたのだ。
 しかし、いうまでもないことであるが、世紀の大悪書といえども(なにが「悪書」であるかはわからないが、それをおくとしても)、書物でかたられている思想というものは、ほんらい多様な解釈にむけてひらかれ、それを読んだものがどのような影響をうけるかはかならずしも予見できない。かりに害をなしたとしても、結果にたいして本人が責任を負えばよいことだ。
 また、どのような言説が有害であるかをあらかじめ判断する審級はなにか、という問題がある。それは要するに、権力をもつ者が恣意的に設定することができるのだ。
 あらゆる書物の禁止という、極端で戯画的な状況がえがきだされているだけに、その不条理は理解できるが、もう少し微妙なかたちで、特定の属性を帯びた言説のみが流通をさまたげられ、意図的に遮断されている状況ならどうか。
 じつはそれはすでに、現在のニホンでおこなわれているともいえる。80年代にさかんにテレヴィにも登場していた広瀬隆氏が、ことしの原発事故後は地上波ではまったく発言の場があたえられないように。

 ディストピア小説は、いうまでもなく、ペシミスムをかたちにしたものだ。ペシミスムは、パラントが著書『ペシミスムと個人主義』において、19世紀のヨーロッパ文学の精髄として摘示するとともに、パラント自身も標榜していた。
 ペシミスムにはさまざまな類型がみとめられるが、未来社会をディストピアとしてえがきだそうとするのは、ニーチェにもみられた堕落史観であり、「歴史的ペシミスム」の類型にはいるだろう。
 わたし自身もパラントやステファヌ・ボーさんと同様、ペシミストを自認するものだが、しかし、いまやペシミスムは、とくに未来の見通しとして社会のゆくすえを悲観する必要はなくなってしまったともいえる。警世の書として Le Coffret が書かれたのだとすれば、それをとりまく状況は、むしろうらやむべきものだったかもしれない。2011年のニホンに身をおいていれば、なんのことはない、いま目のまえにある状況こそ、すでに現出しているディストピアではないか、という気になるのだ。

 ともあれ、社会批評、現代文明批評に興味のあるひとには、一読をすすめたい。
 ジンメル『社会的分化論』中公クラシックス
 (ISBN 978-4-12-16123-0、1680円)

 が出たばかりのようだ。近日中に買うつもり。

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