ジョルジュ・パラントにかんする雑記帖

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Misère du nietzschéisme de gauche


 Aymeric Monville : Misère du nietzschéisme de gauche : De Georges Bataille à Michel Onfray, Aden, 2007.
 (エメリック・モンヴィル『ニーチェ左派の悲惨:バタイユからオンフレーまで』アデン社、2007年)

 この本はとうに読んでいたのですが、わたしのような「パラント趣味者」にとってはかなり重い問題がふくまれていて、なかなか言及できませんでした。しかし、以下ではかろうじて、パラントに関係するところだけでもふれてみたいと思います。
 「ニーチェ左派 nietzschéisme de gauche」ということばは、そのような確たる学派があるというわけではなく、ミシェル・オンフレーの解釈によって存在を仮定された、類似した思想的潮流です。パラントが第1世代、カイヨワやバタイユが第2世代、フーコーやドゥルーズが第3世代とされます。
 そしてその「ニーチェ左派」は、パラントを個別的に語るくだりでは、モンヴィルによって「プルードン的なニーチェ Nitzsche proudhonien」へとしぼりこまれます。
 ただ、実質的に「左派」的な側面はあまり書かれておらず、むしろ「左派」とみなされていた思想家がいかに「右派」的だったかを思いおこさせるところが多かったように思います。

 (ついでながら、フランスには左派・右派の帰属がとくに流動的なところがあるように思います。たとえば、社会党から大統領になったミッテランに、極右アクションフランセーズでの経歴があったりします。あとで言及するクレマンソーも左派・右派の両方であったひとです。
 しかしこのことは、かえって健全な傾向かもしれません。デカルトが『方法叙説』で、つぎのようにいっています。「世界につねにおなじ状態にとどまるものなど、なにものも見いだせないので、もしわたしがなにかに賛同する際に、その対象がのちによいものではなくなるかもしれず、あるいはわたしがそれをよいと判断しなくなるかもしれないのに、のちにもなおよいものであるとあらかじめ解することを強いられた場合、わたしは良識にたいする重大なあやまちをおかすことを考えたことになるであろう」。思想を絶対的な帰属と考え、それに殉ずることがうつくしく、「転向」は裏切りであると見なすことは、ニホンでは左右をとわず見られますが、それはシュティルナーのいう「憑かれたひと die Besessenen」の病理にすぎないといえるでしょう)

 たとえばプルードンは、パリ・コミューヌのころはヴァレスのような「左派」がひきあいに出していたけれども、のちにはモーラスからルバテにいたるまで、ファシストたちが反マルクス的な目的で援用するようになっていました。その援用は、ヒトラーがニーチェを「悪用」したのとおなじくらいに「悪用」だったといえるかもしれません。
 パラントの反マルクス性は、オンフレーもいうように、経済の下部構造性・イデオロギーの上部構造性を否定したことにあります。経済という単一のカテゴリーから出発することですべての現実を説明しうるという考え方を、パラントは貧弱で突飛な考えだとみなしていました。

 ただ、そうしたこととは別に、パラントには、「右派」的にとらえてもけっして「悪用」だとはいえないような側面がまちがいなくありました。
 ひとつは、クレマンソーを留保なく称讃していたことにみられるような、国粋主義的な側面である、とモンヴィルはいっています。
 しかしながら、クレマンソー自身が社会主義者としての側面、個人主義者としての側面、国粋主義者としての側面などをもつ多面的な政治家で、どの側面に光をあてるかによって評価もちがってくるでしょう。パラントの多面性もまた、ある意味でその似姿なのかもしれません。
 オンフレーは、当時は社会主義者といえども、いささかも国粋主義的でなかったひとはめずらしい、というぐあいに、ややパラントの責任を軽くしようとつとめるようなこともいっています。

 しかしながら、それ以上に、パラントは、クレマンソーをはじめとする他者の責任に帰することはできないほど国粋主義的だったといえそうです。
 1890年代から1910年代にかけて、パラントはフランスを称讃し、反ドイツ感情を煽動する発言をくりかえしました。
 たとえば1898年におこなわれた、学生に対する授賞式における演説。「過去のたたかいで、つねに弱者を擁護する立場を鮮明にし、そのことにより大きな力と本当の高貴さを示していた、この騎士道的なフランス人 (cette chevaleresque race française) の継承者になってください」
 (これまた余計なことかもしれませんが、サルコズィも大統領選勝利の演説でたいへん似たことを言っていました: "A tous ceux qui sont persécutés par les tyrannies, par les dictatures, je veux dire à tous les enfants à travers le monde à toutes les femmes martyrisées dans le monde, je veux leur dire que la fierté et le devoir de la France sera d'être à leur côté. "
 このように、どの程度本音で言っているかはべつにして、弱者擁護を誇りとするナショナリズムがなりたつところが、フランスの特徴といえるかもしれません)
 ヴェルダン要塞での戦闘の年、1916年には、パラントは「教訓をあたえる戦争について De la guerre éducatrice」と題した演説をおこない、フランスはあまりにも隣人を信用したせいで、ドイツにだまされた、といった趣旨の発言をしています。
 パラントがニーチェがひきあいに出すのはまた、ニーチェの「反ゲルマン性」においてでもあります。

 パラントは反ゲルマンで、かつ反ユダヤでもありました。ルイ・グリユーに、デュペレーに関する意見をもとめて、「かれは警察の者か? フリーメイソンか? ユダヤ人か?」とたずねたそうです。

 パラントの反ゲルマン性、反ユダヤ性を説明しうると思われる理由は、すくなくともふたつあります。それらはどちらもすでに言及したことではありますが、いまのところ、ほかに思いあたることはなく、くりかえしをいとわず言及せざるをえません。
 ひとつは、デュルケーム派の社会学、ひいてはデュルケームそのひとに対する抜きがたい反感です。パラントがソルボンヌに提出した博士論文が門前払いされたという例外的な挫折は、やはり、かれのこころに大きな怨念を植えつけたと思わないではいられません。反デュルケームから反ゲルマン・反ユダヤへ。この理路はたいへんに単純ですが、単純だけに根ぶかいのかもしれません。
 もうひとつは、いっそう内在的な理由として、パラントの個人主義理論にふくまれる人種主義性があります。個人の意義を称揚するにあたり、かれは博士論文で、知性や感性が身体性に根ざしていることを主張します。そこまでならついてゆけるのですが、身体性とはすなわち遺伝形質、遺伝形質とはすなわち人種だ、というように論をはこぶにいたり、当初の個人主義とはずいぶんちがったところに出てきてしまったと思うのですが、どうもパラントの信念のなかでは、個人主義と人種は不即不離の関係にあったようです。