ジョルジュ・パラントにかんする雑記帖

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12月のチュニジア出張以降は余裕ができるようなことをいっておきながら、けっきょくそのあとも自転車操業がつづき、こんなにも空白があいてしまいました。
自分のおさらいもかねて、H さんからメールでいただいた『個人と社会の対立関係』に対するコメントの一部と、それへのわたしの返信を転載してみます。
賛否をとわず、ひとからなにかいわれると、話しやすくなるようです (というわけで、どうか、いろいろおっしゃってください。メールはこちら)




(H さん)
マルクスにせよ、ニーチェにせよ個人の尊厳という問題から出発して、いわば個人対社会の対立図式をどう乗り越えるかが問題となって、革命や超人といった解決方法の仮説を打ち立てていったけど、それが正しい間違いということよりも乗り越え方の仮説を示したことが重要だったと思う。でも、パラントって何か示してるのかなあ。

(わたなべ)
対立関係は、永遠に解決できるものでもないし、するものでもないというのがパラントの考えだと思います。
むしろ永続する対立関係こそが歴史の動因であり、今後もそうありつづけるだろう、という考えかたをとっています。
「乗り越えかた」だの、「解決方法の仮説」だのということは、はじめから考えようともしていないでしょう。
この点はまた、パラントを特徴づけるペシミズムとも結びついています。

(H さん)
共同体全部に対して社会と言って批判するなら、精神疾病の人や、聾唖者の人見てると、多分今のような権利も失うだろうなあ。誰かが助けなければならない、それも個人的にではなく、ある集団が助けなければならない人っているのだけど、そういうのはパラント何も考えてないみたいね。

(わたなべ)
パラント自身がいわゆる「身体障がい者」でしたから、「何も考えてない」はずはないと思うのですが、ただ、集団的な援助を肯定しているところはほとんどありませんね。
もちろん、パラントも、個人が社会から得るものがまったくないと考えているわけではないのですが、さしひきすると失うもののほうが多いといっているわけで、その点においても異端の思想であると思います。
社会的紐帯が個人をささえているのは、おおくのばあい、あたかも、綱が首つりをするひとをささえているようなものである」(拙訳書 p.122) といっています。

なお、パラントも初期 (『個人のためのたたかい』『個人主義者の感性』) はプルードンのような自治体社会主義をとなえ、あらゆる連帯を否定していたわけではないのですが、あとになるほど (『個人と社会の対立関係』『ペシミズムと個人主義』) 社会性を峻厳に否定し、「社会は君を利用するが、結社は君が利用する」といっていたシュティルナーを甘っちょろいと批判するにいたっているわけです。
その思想的変遷はまた、パラントのからだがますますわるくなり、H さん式に考えるとますます社会的紐帯にささえられる必要が出てきていても不思議ではない時期に起こっていることも興味ぶかいです。