ジョルジュ・パラントにかんする雑記帖

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 「反知性主義」というのが最近のキーワードになっているようで、買ったままだった『現代思想』の2月号をとりだしてきた。
 内田樹氏が編まれた最近の共著書も「反知性主義」を題名にふくんでいたと記憶しているが、ざんねんながらいま研究室の耐震工事のため、引っ越しの荷づくりで封入してしまった。
 最近の意味でいう「反知性主義」は、外国人排斥や、ある種のポピュリズムをさすようだ(わたしにとっては、これからしておどろきだ)。端的な例としては、いまの総理大臣が、戦後レジームの転換を旗印にしていながら、戦後体制の出発点になったポツダム宣言を知らない(国会では「その部分をつまびらかに読んでいない」と答弁していたが、ポツダム宣言はわずか13条で、印刷すれば1枚の紙におさまるくらいなので、それを「つまびらかに読んでいない」というのは、とりもなおさず「読んでいない」ことになる)とか、改憲をめざしているにもかかわらず、憲法学の泰斗である芦部信喜を知らなかった、といったことがあげられる。

 しかし、わたしにとっては、「反知性主義」といってまっさきに思いうかぶのは、アミエル、ルコント・ド・リール、ヴィニー、アナトール・フランスといった反合理主義者たちだ。アナトール・フランスは『エピクロスの園』で、「科学的発明や工業的発明が続々とあらわれてくると、きみは底が知れないといって恐怖をいだいた。しかしもっとも単純な思想も、もっとも本能的な行為も、その結果にはやはり多くのはかり知れないものがある」といっている。
 ジョルジュ・パラントはこのようなひとたちを「理性の敵」(ennemi de la raison)とよんでいる。「理性の敵」といっても、わるい意味ではなく、パラントはこのことばを好意的につかっている。古代ギリシアの懐疑主義者(sceptique、あるいは misologue)も、パラントにとっては「理性の敵」であり、文学上のロマン主義やペシミスムの系譜へとつらなってゆくものとしている。

 理性や知性の上位に感性をおこうとすることは、こんにちの意味でいう「反知性主義」と共通しているのかもしれない。しかし、こんにちの「反知性主義」は、感性をいわばメタ理論のような位置におくことによって理性や知性をみちびこうとすることではなく、はなから知性には目をむけずに、積極的に無知蒙昧であろうとしているところが違うのではなかろうか。ある「旧大陸」のひとが、「新大陸」のひとたちに関して、インフォーマルな発言として「あいつらには文化がないのではない、文化が嫌いなんだ」といっていたことがあるが、そこでいう「文化が嫌い」と同質かもしれない。

 このあと、「イデオロギーの終焉」という、まったくおかしな概念について書こうとおもっていたが、つかれたのできょうは打ち止め。
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