ジョルジュ・パラントにかんする雑記帖

 Stéphane Beau : Le Coffret, Éditions du Petit Pavé, 2009 (ISBN : 978-2-84712-217-6, 定価 € 15 )

 この本を書いたステファヌ・ボーさんは、わたしがジョルジュ・パラント Georges Palante の訳書をだしたとき、序文を書いてもらったり、彼が編纂したパラント全集の序文に友情出演させてもらったりした仲だ。




 わたしのラテン語解読がまちがっていなければ、表紙にあしらわれているのは、18世紀にローマ教会が発した禁書目録のようだ。

(以下、ねたばれ注意)

 Le Coffret は、ひとことでいうと、ディストピア小説だ。
 えがかれているのは、労働効率や生産性が徹底して追求され、危険思想の源泉として書物が禁止されているという、2090年代のヨーロッパだ。そこでは、「哲学」さえもが、もっぱら否定的なコノテーションを帯びている。
 そのなかで主人公ナタナエル・クリルは、かれの亡き祖父ジャン・クリルが書いた叛逆的(と社会的にみなされている)作品 À l'aube de la dictature universelle とともに、モンテーニュ、ニーチェ、フロイト、ジョルジュ・パラントなどの禁書を、屋根裏部屋にしまいこまれた箱(これが題名の coffret だ)から発見し、ひそかに読みふける。
 しかし、とくに信頼していた職場の友人にそのことを打ち明けたところを、第三者に録音され、公安警察からの追及をうけることになってしまう。
 主人公の祖父のジャンの著書 À l'aube de la dictature universelle もまた、入れ子構造になって Le Coffret のものがたりのなかに挿入され、主人公の考えや、たどる運命とかさなりあい、すれちがいながら、重層的かつ相互作用的テクストとして進行してゆく。

 しかし、Le Coffret のなかでディストピアの描写として示されている事象は、いまのニホンですでに実現しているように思えてならない。
 だいたい、書物など、禁止されるまでもなく、死に絶えつつあるのではなかろうか。また、「週45時間におよぶ長時間の労働」がディストピアの徴候としてえがきだされているが、ニホンでは完全に現実になっているだろう。
 とりわけ、親友とおもっていた同僚が主人公になげかけるせりふ、
 「おまえはなんのはなしをしているのだ? おまえの質問はなんだ? おまえがそんなにややこしい話しかたをするのは好きじゃないなあ。おまえの問題はなんなんだ、おまえが話題にしている連中、「哲学者」とやらはなんなんだ? 「哲学者」というのは、あんまりまともな話をしているようには思わないなあ」
 などというのは、多少なりとも真剣な話をしようとすると、いまのニホンでも、ほとんどいたるところからきこえてきそうな思考嫌悪、知性嫌悪ではなかろうか。
 嫌悪だけならまだしも、体制による馴致をこばむ独立的な思考を、人倫に背馳しているかのようにおとしめる傾向が、すでにいまのニホンにはあるように思う(たとえば、「反原発」の表明に反社会的煽動者のレッテルをはる者など。そういうひとにかきって、すでに1京5000兆ベクレルの放射能を放出した東京電力をほぼ不問にする。どちらが「反社会的」か)。

 ものがたりのつづきは、このようになる。公安警察の刑事ミルモンがナタナエルのものをおとずれ、家宅捜索により禁書を発見されてしまう。
 しかし、ミルモンが「思想犯に、敵対者としてまともに応対するに足るだけの信念をもっているものはいない。それどころか、社会全体の現象として、自身の責任をひきうけない脆弱な精神のもちぬしばかりになってしまった。あらゆる社会的危険をあらかじめ除去する政策が徹底された結果だろう」という趣旨のなげきをもらすことから、そのときの会話は意外な方向に進展する。
 ナタナエルは、それこそがまさしく、禁書としてミルモンが追求しているはずのジョルジュ・パラントの書物に書かれていることだという。
 「決断力と責任とは不離の関係にある。個人の決断力のおとろえは、責任感のおとろえをひきおこす。現代の精神の特徴は、個人の責任にたいする恐怖である。集団的責任のなかに、個人の責任を溶かしこんでしまおうとする欲望である」)(ちなみにこれは、じっさいにパラントの著書のひとつ、『個人のためのたたかい』の一節である)
 ナタナエルが連行されようとしたとき、その日まで内偵のために長らく路上駐車しつづけていたミルモンに近所の女性が苦情を呈する。そのすきに、ナタナエルはほとんど直感的に、まだ読み終わっていなかった祖父の本だけをつかんで逃げだす。気づいたミルモンは、小銃をとりだし、逃走をこころみる者を射撃することもできたが、一瞬ためらい、ナタナエルをとりにがす。
 ナタナエルはうちすてられた郊外の廃屋に身をひそめ、数週間にわたる孤独で困難な逃亡生活をおくる(「自由には対価がともなう。それは孤独である」)。 しかし、その生活のおかげで祖父の本を読みつづけることができる。
 飢えと渇きと寒さから健康をそこない、ナタナエルはひそかに自宅にもどる。なにも変わっていない。À l'aube de la dictature universelle で、祖父がいったん釈放されて、自宅にもどったときと類似している。祖父の本をみつけた屋根裏部屋で昏昏とねむる。
 目覚めるとミルモンがきていた。変わりはてたナタナエルをみて、ミルモンは救急車をよぶが、ナタナエルは窓から身をなげる。死がある以上、人間に自由はない。それでも自由人を称するものは、死をおそれない。ナタナエルが一命をとりとめたかどうかはよくわからないまま、ものがたりは結末をむかえる。

 ナタナエルがだれに迷惑をかけたというのか。かれはただ、祖父が書いた書物、祖父に影響をあたえた書物を読もうとしただけだ。それが2060年代の法規で禁止されていたのはなぜか。生産性低下、社会紊乱をもたらすものとして、いわば予防的に禁止されていたのだ。
 しかし、いうまでもないことであるが、世紀の大悪書といえども(なにが「悪書」であるかはわからないが、それをおくとしても)、書物でかたられている思想というものは、ほんらい多様な解釈にむけてひらかれ、それを読んだものがどのような影響をうけるかはかならずしも予見できない。かりに害をなしたとしても、結果にたいして本人が責任を負えばよいことだ。
 また、どのような言説が有害であるかをあらかじめ判断する審級はなにか、という問題がある。それは要するに、権力をもつ者が恣意的に設定することができるのだ。
 あらゆる書物の禁止という、極端で戯画的な状況がえがきだされているだけに、その不条理は理解できるが、もう少し微妙なかたちで、特定の属性を帯びた言説のみが流通をさまたげられ、意図的に遮断されている状況ならどうか。
 じつはそれはすでに、現在のニホンでおこなわれているともいえる。80年代にさかんにテレヴィにも登場していた広瀬隆氏が、ことしの原発事故後は地上波ではまったく発言の場があたえられないように。

 ディストピア小説は、いうまでもなく、ペシミスムをかたちにしたものだ。ペシミスムは、パラントが著書『ペシミスムと個人主義』において、19世紀のヨーロッパ文学の精髄として摘示するとともに、パラント自身も標榜していた。
 ペシミスムにはさまざまな類型がみとめられるが、未来社会をディストピアとしてえがきだそうとするのは、ニーチェにもみられた堕落史観であり、「歴史的ペシミスム」の類型にはいるだろう。
 わたし自身もパラントやステファヌ・ボーさんと同様、ペシミストを自認するものだが、しかし、いまやペシミスムは、とくに未来の見通しとして社会のゆくすえを悲観する必要はなくなってしまったともいえる。警世の書として Le Coffret が書かれたのだとすれば、それをとりまく状況は、むしろうらやむべきものだったかもしれない。2011年のニホンに身をおいていれば、なんのことはない、いま目のまえにある状況こそ、すでに現出しているディストピアではないか、という気になるのだ。

 ともあれ、社会批評、現代文明批評に興味のあるひとには、一読をすすめたい。
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