ジョルジュ・パラントにかんする雑記帖

 ゴビノーの『プレイヤード』に、つぎのようなくだりがある。

 Il ne m'agrée pas de voir un peuple jadis si grand, désormais couché sur le sol, impotent, paralysé, à moitié pourri, se décomposant, livré aux niaiseries, aux misères, aux méchancetés, aux férocités, aux lâchetés, aux défaillances d'une enfance sénile, et propre à rien, sauf à mourir, ce que je lui souhaite sincèrement, afin qu'il tombe hors du déshonneur où il se vautre en ricanant d'imbécillité. (Gobineau, Les Pléiades, p.228)
 (かつてまことに偉大であったが、いまや地べたに横たわり、動けなくなり、麻痺し、なかば腐り、解体して、愚行や悲惨さや悪意や獰猛さや臆病や耄碌に身をゆだね、愚かしさを嘲笑しながらもそのなかに溺れる恥辱をまぬかれるためには、死ぬ--それをわたしは心から彼らにのぞんでいるのだが--しかないようなひとびとを見るのは、わたしには耐えられない)

 理想はストア派哲学にわずかに生き残っているのみであるとするゴビノーは、まちがいなく堕落史観の徒であり、パラントのことばをかりていえば、史的悲観主義 Pessimisme historique を標榜するものである。

 この言明は、個人史にも妥当するように思う。
 としとともにひとが獲得する社会的巧緻性とは、けっきょく、恥知らずな策術を弄することであったり、安直な方途をばかりをえらぶようになることであったりする。
 いくつかの徳目において、わたし自身も、わかいころのほうがはるかにましだったと思う。
 失ったものは、未熟ゆえに悪しき因襲をも修得していなかったあの原初的無垢、幼年的清廉である。
 これらのものは、社会的技能を「修得」すればするほど、それに反比例するかのように「喪失」せざるをえないという、逆説的な徳目である。
 その一方で、「経験」がゆたかになるにつれてつちかわれるものといえば、最近「鈍感力」などとよびなされ称揚されるところの、ありていにいって「つらのかわの厚さ」だけである。
 ゴビノーが死をこいねがうひとびと、その群れのなかに、まちがいなくわたしもはいってしまった。


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