ジョルジュ・パラントにかんする雑記帖

カミュの『反抗的人間』(Camus : L'Homme révolté) のパラントへの言及を、これまでフランス語の全集でしか見ていなかったが、先日、はじめて日本語の訳書を見ておどろいた。

OEuvres Complètes d'Albert Camus, tome 3, p.319, n.1

Dans ses Entretiens sur le bon usage de la liberté, Jean Grenier fonde une démonstration qu'on peut résumer ainsi : la liberté absolue est la destruction de toute valeur ; la valeur absolue supprime toute liberté. De même, Palante "S'il y a une vérité une et universelle, la liberté n'a pas de raison d'être."

Note de l'éditeur (ad loc.) :
Georges Palante (1862-1925) : philosophe qui a servi de modèle à Louis Guilloux pour le personnage de Cripure, dans Le Sang noir.


この箇所に対応する翻訳。

『カミュ全集』第6巻(新潮社)p.278
『自由の善用についての対話』のなかで、ジャン・グルニエは、概略つぎのような証明を基本としている。「絶対的自由はあらゆる価値の破壊であり、絶対的価値はあらゆる自由の排除である」。同じようにパラントが書いている。「ただひとつで普遍的な真理があれば、自由には存在理由がない」と。

訳註 (同書 p.279)
フランスのカトリック系評論家。『カトリックのフランス』紙の寄稿家。[強調わたなべ]


カトリック系?  ( ° Д ° ) ハァ?
まったく見当はずれの、おどろくべき註だ。


訳書にもんくをつけるだけではつまらないので、ついでにいうと、「普遍的な真理」を「自由」と両立しないといいきっているところが、パラントの引用部のこのましいところだとはおもう。しかし、わざわざ引用するには片言隻句にすぎるのではないか。
カミュとしては、アルジェでじぶんの先生だったグルニエに気をつかい、そのまた先生だったパラントに気をつかった、、、というと深読みすぎるかなあ。





パラントは、シュティルナーの、いわゆる「うつろいゆく≪私≫」にたいする批判もしている。

「極限までおしすすめられた唯一性は、瞬間性に達する。シュティルナーは、なによりも、かれの思考が固着し、結晶化するにまかせてしまうことをおそれていた。そのようなわけで、かれは知性の全面的な可動性を表明している。シュティルナーは、きのう確信していたことをきょう確信しておらず、それどころかきょう確信していたことさえも確信しておらず、あす確信するであろうこともまた確信していない。したがって、かれはあらゆる観念をうたがっている。そこからでてくる結果として、かれがそれだけをうけいれるはずの、かれ自身の個人的観念さえも、かれ自身によって拒絶されることになるのである。これらの観念は、いちばんましな場合でも、一時的にかれがのぞんだことの表現にすぎない。それらの観念は、かれのほんの直前のありようにさえ対立していない。それらはあたかも別人の頭脳から出てきたかのほど、あたかもかれに役立つ以外の目的をもっているかのほど、かれにとってなじみのないものである。シュティルナーはかれ自身にとって唯一的なのである。とりわけ、かれに5分後かれがどうなっているのかをたずねてはいけない。かれはそんなことはまったくわからないと言明しているのであるから」(『個人と社会の対立関係』拙訳書 p.37)

パラントはこの批判にもとづいた直接的かつ局所的な対案というべきものは示していないが、総体的な論旨からすると、やはりかれのいう「貴族的個人主義」が対置されているものとみることができるであろう。
そして、逆説的にも、この問題に関するパラントの説は、「貴族的個人主義」とシュティルナー流の個人主義との共通点としてパラントが指摘している点、すなわち、シュティルナーの個人主義のなかでもパラントが採用する部分によって示されるのである。

「シュティルナー流の個人主義はしりぞけるべきものではない。その哲学の真実の部分は、人間の精神の永遠で還元不能の要素、すなわち、個人的知性の唯一性の認識である。まさにその、最低限の独自性の要求こそが、より高い独自性のよりひろく、より理解のある個人主義の第1の基盤となるのである。第1の基盤というのはなぜかというと、ほんとうに刷新し、高次の意味でみずからを独自化し、みずからを知的に貴族化、特権化するためには、まず、ひととちがうことをおそれないことが必要であるからである。まずその唯一性の感覚が必要である。自分自身であらねばならない。『ペール・ギュント』の教訓にしたがうなら、自分自身でありたいとおもうことも必要である」(同書 pp.40-41)

ということで、やはり、唯一性の相のもとにとらえられるような統合的な「個人」を想定しているように見うけられる。
両者の対比からおもいおこされるのは、若桑毅「テクスト記号論の地平 (II)」(『東京学芸大学紀要』36、1985年)が、ルソーの『告白』とシャトーブリアンの『死後出版回想録』とを比較して、つぎのようにいっていることである。

「ルソーの≪私≫は、シンクレティズムの持続によって、あらゆる過去の時と場所と存在とを書く現在時の≪私≫に収斂させる。主としてそれは過去の感情と印象の現在のそれへの持続であって、ルソー自身そのようにしるしている箇所は夥しい」(若桑、p.150)

ルソーからの引用:

「わたしはただひとりだ。わたしには自分のこころが感じられるし、ひとびとを知っている。わたしはいままでに会ったいかなるひとびととも同じようにはできていない。およそ存在するいかなるひとびととも、といいたいくらいだ。かりにわたしがそれよりましではないにしても、すくなくともわたしは別者なのだ」(『告白』の冒頭)

それにたいして、

「シャトーブリアンの≪私≫は[...]ルソーのそれが綜合的であるとすれば、分析的、離散的であるといえる。過去の時間と共にエクリチュールの時間もクロノロジックに拡散するが、しかしつねにその都度、時間的計測がなされ、経過がしるされ、新たに書く現在時に連鎖[ここでいう「連鎖」は「位置画定 repérage」の意。引用者]するのを忘れない。それは差異と断絶による歴史構造の、≪書き手≫による連鎖である」(若桑、ad loc.)

シャトーブリアンからの引用:

「わたしはたまたま、ふたつの河の合流点のように、ふたつの世紀のあいだにあった。わたしはそのあらだつ波にとびこみ、誕生のふるい岸をおしみつつ去り、希望をいだいて未知の岸辺にむかって泳いだ」(『死後出版回想録』II, p.936)

若桑論文は回想的言説の態様にかんするものであるが、≪私≫をどのように表象するかという問題とも直接にかかわっている。言説の態様という点でいうと、語る主体の単一性ないし単独性を疑問に付したポリフォニー理論(バフチン、デュクロ)が当然ながらおもいうかぶ。これらの理論は、シュティルナーとパラントを対比するうえでも示唆的である。

いうまでもなく、パラントのシュティルナー批判は、シャトーブリアン的な≪私≫からルソー的な≪私≫への回帰であるとみなすことができる。
ただ、シュティルナー的・シャトーブリアン的な≪私≫とルソー的・パラント的な≪私≫とは、かならずしも対立関係にのみあるのではない。
シュティルナー的・シャトーブリアン的な≪私≫は、ポリフォニー理論をすでに知ってしまっているわれわれ現代人からみれば、むしろなじみのふかい考えかたではなかろうか。
それにたいして、ルソー的・パラント的な≪私≫は、その唯一性を措定するとき、ほとんどつねに他者との対照において再帰的に規定されることに着目しよう。ルソーにおいても、イプセンにおいても、パラントにおいても、≪私≫が唯一的であるのは、いずれの他者ともことなっていることから出発してえられる認識である。
ポリフォニーが遍在するとするたちばからみれば、シュティルナー的・シャトーブリアン的な≪私≫が内的(主体内的)ポリフォニーにもとづいているのにたいして、ルソー的・パラント的な≪私≫は、外的(主体間的)ポリフォニーにもとづいているというちがいがあるだけだということになるかもしれない。そして、それらふたつのポリフォニーは同時に存在しうるものであるから、ふたつのタイプの≪私≫は両立するということになる。
じっさい、わたしも、これにはほぼ同意する。すくなくとも論理的には両者に矛盾するものでははない。ただし、釈然としない部分がどうしても残る。外的ポリフォニーの実践によって、ひとがなにほどか≪私≫の唯一性を、なぜか内的統一性にいたるまで信じてしまうという過程は、やはり存在するように思うからだ。





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