ジョルジュ・パラントにかんする雑記帖

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 あけましておめでとうございます。
 ことしもどうぞよろしくお願いいたします。

 パラントについてなにもできないまま、何年かが経ってしまっております。
 あたらしいオンデマンド出版( https://myisbn.jp/ )をみつけたので、ことしからは、これを使って、パラントの未公刊和訳書を公刊することを考えております。
 の2件が当面の課題になると思います。
 本当は、『メルキュール・ド・フランス』に連載された哲学時評にも興味があるのですが、あまりにおびただしいので、わたしひとりで翻訳するのはおおよそ不可能です。
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「パラントの概説書がついに英語でも刊行された!」とよろこびいさんで註文して買ったのが写真右の Georges Palante という本です。モーリシャスの Beau Bassin に本社がある、EQU Press という出版社から出版されたものです。
しかし、表紙に "High Quality Content by Wikipedia articles!" という表示があり、いやな予感がしてページをめくったところ、中表紙のうらに "All parts of this book are extracted from Wikipedia" という表記がありました。
なんと、ウィキペディアを抜粋してそのまま本にするという、他人のふんどしで相撲をとるかのような商法です。Wikipedia 自身が複製や再配布をみとめていますから、違法というわけではないでしょうが、わたしにとっては新情報はまったくありませんでしたし、まったく期待はずれな本でした。

というわけで、みなさま、EQU Press の出版物にはご用心召されますよう。
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 「反知性主義」というのが最近のキーワードになっているようで、買ったままだった『現代思想』の2月号をとりだしてきた。
 内田樹氏が編まれた最近の共著書も「反知性主義」を題名にふくんでいたと記憶しているが、ざんねんながらいま研究室の耐震工事のため、引っ越しの荷づくりで封入してしまった。
 最近の意味でいう「反知性主義」は、外国人排斥や、ある種のポピュリズムをさすようだ(わたしにとっては、これからしておどろきだ)。端的な例としては、いまの総理大臣が、戦後レジームの転換を旗印にしていながら、戦後体制の出発点になったポツダム宣言を知らない(国会では「その部分をつまびらかに読んでいない」と答弁していたが、ポツダム宣言はわずか13条で、印刷すれば1枚の紙におさまるくらいなので、それを「つまびらかに読んでいない」というのは、とりもなおさず「読んでいない」ことになる)とか、改憲をめざしているにもかかわらず、憲法学の泰斗である芦部信喜を知らなかった、といったことがあげられる。

 しかし、わたしにとっては、「反知性主義」といってまっさきに思いうかぶのは、アミエル、ルコント・ド・リール、ヴィニー、アナトール・フランスといった反合理主義者たちだ。アナトール・フランスは『エピクロスの園』で、「科学的発明や工業的発明が続々とあらわれてくると、きみは底が知れないといって恐怖をいだいた。しかしもっとも単純な思想も、もっとも本能的な行為も、その結果にはやはり多くのはかり知れないものがある」といっている。
 ジョルジュ・パラントはこのようなひとたちを「理性の敵」(ennemi de la raison)とよんでいる。「理性の敵」といっても、わるい意味ではなく、パラントはこのことばを好意的につかっている。古代ギリシアの懐疑主義者(sceptique、あるいは misologue)も、パラントにとっては「理性の敵」であり、文学上のロマン主義やペシミスムの系譜へとつらなってゆくものとしている。

 理性や知性の上位に感性をおこうとすることは、こんにちの意味でいう「反知性主義」と共通しているのかもしれない。しかし、こんにちの「反知性主義」は、感性をいわばメタ理論のような位置におくことによって理性や知性をみちびこうとすることではなく、はなから知性には目をむけずに、積極的に無知蒙昧であろうとしているところが違うのではなかろうか。ある「旧大陸」のひとが、「新大陸」のひとたちに関して、インフォーマルな発言として「あいつらには文化がないのではない、文化が嫌いなんだ」といっていたことがあるが、そこでいう「文化が嫌い」と同質かもしれない。

 このあと、「イデオロギーの終焉」という、まったくおかしな概念について書こうとおもっていたが、つかれたのできょうは打ち止め。
 (すくなくとも、わたしにとっては)これまた10年越しの大発見!「ニーチェ左派」は、ミシェル・オンフレーの発明した概念ではなかった!
 つぎの引用のように、ドリユー=ラ=ロシェルが、つとに1934年の著書で言っている。

« N'y a-t-il pas en un hégélianisme de droite et de gauche ? Il peut y avoir un nietzschéisme de droit et de gauche. »
     ――Pierre Drieu La Rochelle (1934) Socialisme fasciste, N.R.F., p.71

 奇妙なことに、「ニーチェ左派」をもっぱら主題化したモンヴィル Aymeric Monville (2007) Misère du nitxschéisme de gauche, Aden. さえも、ドリユー=ラ=ロシェルの同書を引用しながらも、かんじんの「ニーチェ左派」を言いだしたくだりには言及していない。
 ソルボンヌでジョルジュ・パラントの指導教授だったセレスタン・ブーグレが、じつはのちにクロード・レヴィ=ストロースの指導教授にもなっていたということを、いまさらながら知った。なんでこんなことをこれまで知らなかったのかと、愕然とする。
 Dominique Depenne の論文、 « Georges Palante contre Emile Durkheim » (Philippe Corcuff ほか編、L'individu aujourd'hui, Presses universitaires de Rennes, 2010 所収) を読んだ。
 れいによって、いくつもの発見があった。
 まず、アノミー anomie という概念が、デュルケムとちがって、パラントにおいては決定論をはなれ、自由な可能性を開放することとして肯定的にもちいられているということ。
 そして、それと関連して、その可能性に対する想像力の問題としてボヴァリスム Bovarysme が論じられているということだ。これまで、わたしにとってはボヴァリスムは難解で、正直にいって、パラントの思想のなかでの意義がわかっていなかったが、この論文をよんで、いくらか理解できたような気がする。
 また、しばしば1898年の論文「個人主義と知識人」を根拠としてデュルケムが « 個人 » の擁護者であるかのようなことがいわれるが、ドゥペンヌはそのそのような説は「誤った名ざし」(abus de langage)であるとして一刀両断しており、ながねんわたしが疑問に思っていたことに対して胸がすくような解決があたえられた気がした。
 来年は、専門外にもかかわらず、パラントにかんする論文の一本でも書きたいと思っている。
 『大杉栄全集』第2巻ができあがり、献本がとどいた。
 いまどきこんな全集が出ること自体、ほとんど奇蹟のように思う。

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 わたしも巻末の「解題」の一部に協力させていただき、附録の「月報」に「ジョルジュ・パラントをめぐって」と題して書かせていただいた。
 おまえが大杉栄となんの関係があるのかといわれそうなので、いちおう弁明しておくと、ジョルジュ・パラントの著作をはじめて日本語に翻訳し、日本に紹介したのが大杉栄だったからだ。

 じつは、もう少しまえにべつの献本もいただいていた。
 わたしも個人的に存じ上げている大阪教育大学の田中ひかるさん、明治大学の飛矢崎雅也さん(ちなみに、このおふたりは、上記の『大杉栄全集』でも編集委員をつとめておられる)らが中心になって、昨秋開催されたシンポジウムをもとにした論文集が最近出版された。

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 日本での議論を外国にも伝えられるよう、すべての論文の英語訳も1冊のなかにおさめられている。
 シンポジウムから1年もたたずにこのような形で出版するのは、これまた奇蹟的なことだ。
 『大杉栄全集』も奇蹟的と思ったが、実際にはもちろん、奇蹟が空からふってくるわけはなく、必死の思いで実現にこぎつけているひとたちがいるわけだ。

 わたしも研究をどんどん公刊したいという気もちはあるのだが、なかなか心身の馬力がついてこない実情だ。
 田中さんたちにあやかって、わたしもそのような力をもちたいものだ。
大杉栄全集月報の原稿依頼

 現在刊行準備中の大杉栄全集の月報に、パラントについて書いた(原稿は7月中に送った)。
 おまえが大杉となんの関係があるのか、といわれそうだが、じつはパラントの書いていた論文のうちのひとつを、パラントと同時代(1910年代)に大杉がはじめて日本語に翻訳・公刊していたのだ。なので、いちおう、大杉はわたしにとって「先人」だ。
 ちなみに大杉は、ロマン・ロランなど、多くのフランス語文献の翻訳をしている。
 Souvenir sur Georges Palante を読了。
 ミシェル・オンフレーによる評伝などで、断片的に引用されていたのを読んだことのある話が、つながった脈絡のなかで読むことができたのがよかった。

 パテティックな失敗者として語られることの多いパラントが、イリオンでは隣人に親切にし、好かれていたことなど、常識的な市民としての側面をまちがいなくもっていたことが書かれており、あまり色めがねで見てはいけないと思った。
 もちろん、それとて、ギユーの目からみたパラントがえがかれているにすぎないのだが、個人的なつきあいがあり、しかも最後には訣別したにもかかわらず、これほど一貫してパラントに好意的なことを書けるひとがいるというだけでも、もっぱらディオゲネス的なひとだったと思ってはいけないだろう。

 ギユーはまた、「ブルターニュ版のジャン・ジオーノ」といわれるほど、郷土への愛着を欠かさないひとで、美しいイフィニャック湾の描写など、わたしも見たことのある場所が出てくると、ありありとその光景を思いおこすことができた。
 わたし自身も昨秋(往年のギユーほどではないが)かなり苦労して往復したサン=ブリユーとイリオン(グランヴィル)のあいだの往還や、ギユーがパラントをイリオンにたずねて行ったときの描写が多く、臨場感をともなってよんだ。
 哲学者は、事蹟によってではなく、考えたことによって評価されるべきであるとは承知しているが、パラントはやはり、困難だったかれの人生との相関においてとらえられるべきではないか、という思いを新たにした。

 とくに、イリオンの海辺での描写がこころに残った。以下の引用は、どこから引用したかをしめさないままギユメでくくられていたが、おそらくパラントからの私信の引用であろう。

 「海辺の、まさにその場所で、わたしはもっともよい時間をすごした。そうすると、多くのことと和解できるようになる。これほどの美しさを前にすれば、われわれのこころの激動など、なんでもなくなる。この無限に身をゆだねるような気分になるときがある。」(同書62ページ)
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 ことしの4月にでたばかりで、註文していた Louis Guilloux : Souvenirs sur Georges Palante が到着した。
 Yannick Pelletier による13ページにおよぶ長文の序文をよんだところだが、なかなか感動的だ。
 ウィキペディアの「ジョルジュ・パラント」の項目(じつは、この記事のニホン語版をはじめて書いたのはわたしだ)を編集し、かれの生地を詳細表記してくださった方がおられた。
 ただし、「ブランジー」と表記されるべき Blangy を「ブラニー」と表記しておられた。
 そこで、その都市名のフランス語版の記事も示しながら、Blagny ではなく Blangy なので、「ブランジー」ではないでしょうか、という趣旨のコメントを公開ノートに書いたところ、さっそくお返事をくださり、記事も修正くださった。
 このような、インターネットの完全公開の場での見知らぬひととの交流は、2000年代初頭にはさかんだったが、SNS の発達などでかなり失われた。それで、ひさしぶりにこころがあたたかくなり、なつかしい気分にひたることができた。

 先日、しごとのあいまに、たずさえていた Cahiers Louis Guilloux の第2巻を読んだので、すこしだけおぼえ書き。

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 第1部はジョルジュ・パラントからルイ・ギユーあてに送られた書簡の集成(1917年から21年にかけての65通)。
 パラントにかんする資料といえば、かれが公刊した著書や雑誌論文は残っているものの、パラントの手もとにあった原稿、日記、書簡などは、かれの死後、再婚の妻ルイーズが、金になる本だけ売りはらったあとすっかり燃やしてしまったので残っていない。しかし、パラントが発信した書簡は相手のところにあるのだから、残っているという道理だ。
 これらを読むと、パラントとギユーの親しい交際とともに、パラントが日常的にどのように思考していたかも読みとることができ、たいへん有意義だ。
 パラントも学期中は校務でいそがしかったらしく、≪tâches innombrables, nauséeuses et inutiles(かぞえきれない、吐き気をもよおす、無益な任務)≫などと書いていて、実感をともなって苦笑してしまう。

 第2部は≪Une carrière≫と題されたパラントの未公刊原稿で、これは奇蹟的にルイーズによる処分をまぬかれ、残っていたらしい。
 パラントの晩年、ボヴァリスムの理論家ジュール・ド・ゴルティエとの論争が過熱し、決闘騒動になった事件にかんする手記だ。
 教え子の弁護士ペリゴワ氏が、決闘の法的手つづき(1920年代はまだ、決闘が合法だった!)を補助することになり、証人の選定やゴルティエがわとの交渉を担当したが、その交渉過程で、ペリゴワ氏は、わたしにとってきわめて不利な条件をのまざるをえない方向にみちびいた、そしてそれはわたしをだまし、おとしいれるための陰謀だった、というようにくちをきわめてののしっている。
 もちろんこれは、パラントのがわからみた一方的な意見で、実際にはペリゴワ氏は、恩師のことを思い、決闘そのものを回避するために働いたのではなかろうか。それにしても、なかなかイメージのわかなかった事件について、なまなましくえがき出されており、貴重な資料になるだろう。

 第3部はギユーによるパラント評論で、やはり Cahiers Louis Guilloux の第2巻におさめられるまでは未刊だった。
 これも重要な文献だが、これについて述べるにはもう少し整備した論文のようなかたちのほうがよいだろうから、ここには書かないことにする。
 本サイトの「文献」らんにしるしたように、久木哲訳 (1975) :『個人主義の哲学』 (パラント著作刊行会) は、パラントの著書 (実質的には論文集) の La sensibilité individualiste および Combat pour l'individu からの抄訳であるが、いつも思いだそうとするのに時間がかかるので、訳されている部分とそうでない部分をまとめておきたい。○印は久木訳 (1975) 所収。△印は大杉栄による訳がある (じつはそれが、日本ではじめて翻訳が刊行されたパラントの著作)。×印はまだ日本語訳が刊行されていない。

La sensibilité individualiste より
○ La sensibilité individualiste
× Amitié et Socialité
○ L'Ironie
○ Deux types d'immoralisme
○ Anarchisme et individualisme

Combat pour l'individu より
× L'esprit de corps
× L'esprit administratif
× L'esprit de petite ville
× L'esprit de famille
× L'esprit de classe
× L'esprit étatiste
× L'esprit de ligue
× L'esprit démocratique
× L'esprit mondain en démocratie
× L'embourgeoisement du sentiment de l'honneur
× Le mensonge de groupe
× L'impunité de groupe
× La téléologie sociale
× Moralisme et immoralisme
× L'idole pédagogique : l'éducationnisme.
△ La mentalité du révolté
○ Le dilletantisme social et la philosophie du surhomme
○ Les dogmatismes sociaux et la libération de l'individu
 案の定、ドゥペンヌの2巻本はまだあまり読めていない。
 内容にいっそう興味がある第2巻からをよんでいて、その題名にもなっている≪永遠の異端≫とは、ジョルジュ・パラントが一生うしろ指をさされつづけたことをいうのではなく、つねに好んで異端でありつづけたことをさしていることに気づいた。
 ここでは≪永遠の異端≫の反意語は、≪組織された異端≫であって、それは避けるべきあらたなドグマでしかない。

 そもそも、≪異端≫を≪正統≫への叛逆としてとらえるのは歴史的に誤りで、実際には≪異端≫のほうがさきにあり、それへの対処として≪正統≫が整備されたのだった(コワコフスキーのキリスト教(無教会派?)研究による)。

 20世紀の到来とともに、生まれて間もない学問であった社会学の概説書をフランスではじめて書いた(Précis de sociologie, 1901年)パラントは、ほんらいなら、フランスにおける社会学の創始者とされるべきだった。
 しかし、デュルケーム派のもとにあったソルボンヌの教授陣は、かれに学位をあたえなかったばかりか、存在そのものを無視するという戦略をとった。それ以降も、フランス社会学の公的な、つまり、≪正統≫の歴史は、パラントに場所をあたえることはなかった。
 これこそ、≪異端≫が≪正統≫に先立ち、≪正統≫が≪異端≫への対処として形成されるという関係の端的な例といえよう。

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